
夏目 房之介 なつめ・ふさのすけ
マンガコラムニスト
![]() 『ビッグコミック』 創刊号 1968年4月号 発行 小学館 |
【連載第103回】 1968~69年、ビッグコミック創刊当時の表紙絵は伊坂芳太郎。 彼は当時「イラストレイター」という横文字職業名で呼ばれた「若者の憧れるカッコいい職業の人」であった。 他に有名だったのは横尾忠則、宇野亜喜良など。それ以前は挿絵画家とか図案家とか呼ばれていたと思う。 また創刊当時、マンガ以外に「アングラ」情報を伝える一色グラビアや活字ページがあり、 自由劇場やモダン・アートなどのアングラ演劇やパフォーマンス、若者の集まる新宿の深夜スナックなどが紹介されている。 記事にいわく〈深夜スナック、ディスコ・ティクは今に始まったわけじゃないが、最近の若いプレー野郎どものタマリ場は、 ほとんどが地下(アンダーグラウンド)だ。[略]自分のオリジナル・ファッションと、ニュー・ステップの披露宴。 もちろんセックス・ハントもOK。〉だそうだ。 〈プレー野郎〉には「若者」のはしくれだった僕でもさすがに苦笑するが、当時のキイワードの一つが「プレイボーイ」からきた 「プレイ」だったのだろう。秋田書店の「プレイコミック」などは、つまりカッコよさそうな横文字を並べたネーミングだったわけだ。 もちろん「アングラ」「サイケ」「フリーセックス」などもキャッチーな (と少なくとも雑誌のデスクやライターが思っていたらしい)「若者」向けの言葉だった。 他に適当に拾ってみると、微妙に批判的=知的(?)若者を狙ったらしいパロディページ (この頃のパロディブームには米国「MAD」誌の影響が強い)。 当時の若者の憧れを集約した『若大将』こと加山雄三を使ったコカコーラや、テイジンの若者服や日産サニーの宣伝。 創刊記念プレゼントの商品はサニー、日立ステレオ、同電気カミソリにサントリービール。 つまり「カー、セックス、ファッション」=「若者文化」アイテムなのである。これは64年創刊の「平凡パンチ」 (平凡出版、のちマガジンハウス)の大ヒットと、それに続く「週刊プレイボーイ」(集英社 66年)の成功によって「若者」向け (受け)雑誌のイメージができあがっていた影響でもあったろう。 つまり、当時の青年劇画誌はたんにマンガ雑誌の対象年齢を上げたのではない。 都会的な「カッコいい」若者像(正確には、それに憧れる読者)が対象として想定されていたのである。 ただ、この頃18~19歳の、ガキに近い「若者」だった僕から見ても、マンガ誌がガンバってカッコよく見せようとしている イジマシサを感じる程度にダサかったのも事実である。とはいえ「平凡パンチ」はたしかにカッコよく感じたものの、そもそも 「ナウなヤング」なんて、いつの時代でもダサいといえばいえるので、まぁしかたないことだったのかもしれない。 いずれにせよ戦後日本の「若者」は、60年代を通じて高度成長とともに自らを「カッコよく」できた発展途上的存在だった。 それまで誂えがホンモノだったファッションの世界に、何とか頑張れば買える値段の既製服(ツルシといわれた)を流行させ、 既製服でおしゃれのできる時代を作ったVANや、ポータブル型ステレオ装置、フォークギターなどを買うために、 つまり都市部の若者が「平凡パンチ」化するには可処分所得の上昇、アルバイトの普及が必要だった。 ところで、ここでいう都市部の若者とは、正確にはお小遣いを使えた「若者」たち、おもに都市中間層の子弟である。 が、その一方に、農村から集団就職列車で都市に流れ込んだブルーカラー階層の若者たちがいた。 60年代を中心に大量の若者が集団就職列車(54~75年)に乗り、労働力として都市部に流入した[註]。 彼らは、ほぼ戦後ベビーブーマーであり、つまりマンガをはじめ多くの戦後文化の担い手世代でもある。 いいかえれば、彼ら大量移動人口の生活の変化、都市部への定着と結婚・子育て・マイホーム建設などが 経済成長のひとつの支えであり、また若者文化から中産階級文化への変容の背景だといってもいい。 大学進学率も、55年の10.1%から70年の23.6%に上昇し、ここでも大量の戦後ベビーブーマーが都市部に集まり、 知的大衆化していく。60年代の「若者文化」を形成するのは、これら戦後ベビーブーマーのブルーカラーから大学生にいたる階層の 人々だったわけだ。 その観点から「ビッグコミック」にいたるマンガ雑誌の流れを眺めると、 マンガ・メディアが社会の階層間流動の様子を映しているように思える。 A)戦前から続く講談社などの中間層以上を対象にした子供雑誌と、その後継者である戦後の少年・少女マンガ月刊誌の流れ。 B)より下層庶民をも対象にしえた赤本(一部には手塚治虫が影響を受けた中村書店のシリーズなど高級なものもあったが)、 貸本マンガの流れ。 この二つの流れの後裔に、60年代の青年化したマンガに対応するマニアな雑誌として、 「月刊漫画ガロ」(64年)と「COM」(67年)が成立、さらに中小出版社の青年劇画誌の乱立(67~68年)がおこる。 長井勝一・白土三平がおこした青林堂「ガロ」は明らかにB)の流れを汲み、手塚系の「COM」はA)の流れだとすれば、 「ビッグコミック」にいたる青年劇画誌乱立は、その(マンガと劇画の)総合と混沌の結果なのである(実際は貸本マンガにも 「劇画」的ではない作品も多く、単純ではないが)。 いいかえると、60年代末以降の日本社会の上げ底的「総中流化」 =中間層を肥大化させた高度消費社会の成立が、マンガ・メディアの青年誌化の定着の背景であった。 そこで「若者文化」=カウンター・カルチャーとしての象徴性をまとっていた「劇画」は、その想定読者層であった 都市若年ブルーカラー層の成長と社会的上昇に沿って変容し、対抗的な役割を終えたと見られる。 A,B)両方の代表作家を揃えた「ビッグコミック」の成功は、いわばその里程標的な意味をもったといえるだろう。 さてしかし「ビッグコミック」はじめ青年劇画誌の多くが、アメコミやBDの真似をしたり翻訳紹介したりしていたのは、 なぜだったのか? おそらく、上昇しつつあった自らをハク付けし「カッコいい若者文化」の一員としてのイメージをまとおうとしたのだと思う。この国では「カッコいいもの」はすべて、海外に「憧れ」の源泉を持つ必要があるからだ。 が、この試みは失敗した。マンガが、その後も日本社会において今ひとつ「ダサい」イメージを持ち続け、 しかしロックのように海外に価値基準の源泉を持たない文化になったのは、この挫折以来だったといえる。 註 55年に東京在住の15~19歳人口は90万弱、20~24歳で102万。それが65年には130万と158万に増え、 各40万と56万で合計96万人の増加。60年から70年の10年間で東京の総人口は890万から1087万へ、約200万人増加している。 (『数字でみる日本の100年』第4版国勢社 00年など) コミックパークエッセイ最新号はコミックバークトップの下部から読めます!。(無料の会員登録が必要です) 夏目房之介さんの「カココミ」はこちら http://kakocomi.comicpark.net/result/0de4a418a320764e |