赤塚ギャグの合奏者たち
コミックパーク
赤塚不二夫漫画大全集
第1回 五十嵐 隆夫さん
第2回 武居 俊樹さん
第3回 北見けんいちさん

焼けあとの元気くん
「焼けあとの元気くん」1〜8巻
北見けんいち


















おそ松くん
「おそ松くん」1〜34巻
第3回 北見けんいちさん

北見さん
1940年生まれ。1964年から赤塚不二夫のアシスタントを務め、フジオ・プロのスタッフとなる。独立し『釣りバカ日誌』(やまさき十三原作・1979年〜「ビッグコミックオリジナル」連載中)、『愛しのチィパッパ』(やまさき十三原作・1981年〜「女性セブン」連載)などのヒット作を発表する。『元気くん』(1983年〜「中日新聞」「東京新聞」連載中)の初代シリーズ『焼けあとの元気くん』がコミックパークで発売中。
第3回は、フジオ・プロで赤塚先生のアシスタントを担当された北見けんいち先生です。北見先生は長期にわたってアシスタントを務められ、独立後も赤塚先生と親密な付き合いをされていらっしゃいます。

--- まず、フジオ・プロに参加された(注1)きっかけからお聞かせください。

北見: ちょうど東京オリンピック(1964年)の前ぐらいに、小学館に持ち込みして見てもらったのが「少年サンデー」の椛島さんで、その方がたまたま赤塚担当(『おそ松くん』初代担当)だったんだね。『おそ松くん』の人気で人が足りなくなって、僕が熱心に持ち込みをしていたもんで「いってみませんか」ということになりました。それからずっとですね。

(注1) 厳密には当時はまだ「フジオ・プロ」という組織ではなく、正式な設立は1965年。フジオ・プロには北見けんいちのほか、長谷邦夫、高井研一郎、古谷三敏、土田よしこ、とりいかずよし、あだち勉などが所属した。

アシスタントをしていたころは先生の人気がグーッと上がっていくときで、本当に忙しかったですよ。週刊誌4本連載に月刊誌や読みきりでしょう。描いたページ数だけなら石ノ森(章太郎)さんやさいとう(たかを)さんのほうが多いと思いますけど、ギャグマンガの場合は、ページ数は少ないけど中身が違うからね。とにかく忙しかった。当時は神保町に花月っていう旅館があって、カンヅメ(注2)になるんですよ。ここで各社の編集者が待ってる。浴衣着てエンピツ持って描いて……今考えると楽しかったね。ちょっと間があくと古本屋さんをまわったりして。

(注2) 「館詰め」と書く。旅館などに仕事場を移し、執筆に集中させること。
北見さん

フジオ・プロでは分業が進んでいたんですよ。アイデア会議のあと、赤塚先生がネーム(コマ割りとセリフ)とアタリ(ラフな下描き)、高井研一郎さんが一本線で下描きして他の人に渡す。僕はそのころ一番末端の仕事をしてたんで、仕上げで消しゴムをかけたりベタを塗ったり。

実は赤塚キャラクターは高井さんがずいぶん作ってるんだよね。赤塚先生が作ったのは六つ子とチビ太、お父さんお母さんとトト子ちゃんぐらいじゃないかな。イヤミやデカパンなんかは高井さんがデザインしてる。古谷三敏さんはアイデアが上手で、『天才バカボン』のアイデアが特にうまいんだよ。だから高井さんと古谷さんがいたころは最強だね。

そういえば『おそ松くん』は元の奥さんの登茂子さんもアイデア出してたね。西大久保の第三さつき荘ってアパートで仕事してたとき、隣の部屋で先生と奥さんがアイデアやってる。たまにケンカしたりしてるのが聞こえたり(笑)。

でもゼロ戦とか車とか出てくるときは、僕が唯一下描きからペンまでまかされていたんです。他に描ける人がいないから「メカ関係は北見」って。飛行機とか出てきたら僕だね。昔から車とかカメラとかが好きだったから。

僕はアシスタントがずっと長くて、先生の仕事がひと段落するころ『釣りバカ日誌』(1979〜「ビッグコミックオリジナル」連載中)がはじまったのかな。
 
ギャグゲリラ
「ギャグゲリラ」1〜12巻
「ギャグゲリラ」1980/1981/1982
--- 北見先生はアシスタント後期には『ギャグゲリラ』を担当されていたそうですね。

北見: 『ギャグゲリラ』(注3)はアイデアから参加したけど、僕はアイデア出ないんでほとんど絵だけ(笑)。アイデアは主に赤塚先生と長谷邦夫さんと週刊文春の担当、たまに僕がメモ係で記録して。時事ネタが多かったから週刊誌を見ながらアイデアを作っていた。「ギャグゲリラ」の手書き文字は最初から最後まで僕の字なんだよね。『ギャグゲリラ』の終わりの2年ぐらいは自分で『釣りバカ日誌』や『愛しのチィパッパ』(1981年〜「女性セブン」連載)をやりながら文字だけでも手伝ってたよ。


(注3) ギャグゲリラ』(1971〜1982年「週刊文春」連載)は、一般週刊誌連載ということもあり、時事ネタや大人向けのギャグが多かった。また大人向けマンガに倣い、ネームに写植を使わず、セリフはすべて手書きの文字だった。
 


愛しのチィパッパ
「愛しのチィパッパ」1〜20巻
やまさき十三、北見けんいち
--- フジオ・プロのお仕事を通じて見た赤塚先生というのはどんな方でしたか。

北見: 赤塚先生は「一人でやる」ってことはまずない人でね。誰かしらのアイデアとかを活かしていく、一種のプロデューサーなんですよ。アイデアもみんなで出すから、メチャクチャに数あるわけ。そこから使えるもの使えないものを取捨選択していくでしょ。その選び方が天才的だったんだよね。

そして先生がアイデアをもとにネームを描くんだけど、これがうまいんだよね。マンガってコマ割りで8割決まるから。言ってみれば映画監督みたいなもんだね。この才能の全盛がさっきの時期。

ストーリーの手塚、ギャグの赤塚っていう言い方があるけど、手塚先生はちょっと違うんだよね。手塚先生の内容のレベルは高くて人気もあったけど、ナンバーワンにはならないのよ。その点、赤塚先生は時代の寵児みたいなところがありました。

 
トイレット博士
「トイレット博士」1〜30巻
とりいかずよし


スリラー教授 いじわる教授
「スリラー教授 いじわる教授」
表紙は当時のフジオ・プロの写真
--- フジオ・プロが赤塚先生を支えた部分も大きいですが、先生が独立させた人も多いですよね。

北見: フジオ・プロは入れ替わりが多かったんで、辞めていった人も多いけど、その中で連載もって独立した人は多いですね。各自才能があったんだろうね。

『トイレット博士』(注4)みたいに、とりいちゃん(とりいかずよし)に描かせようって政治的にプッシュしてアイデアを提供してヒットさせたなんてのもありますね。

(注4) とりいかずよし『トイレット博士』(1970年〜「週刊少年ジャンプ」連載)は赤塚自身が汚いマンガを敬遠したため、フジオ・プロに出入りしていた集英社の角南氏にとりいを紹介して連載させた。
北見さん

僕なんか一番ダメって言われた(笑)。「辞めろ辞めろ」って何度言われたかねぇ……。「君の絵じゃ無理だよ」とか「おっとりしすぎだよ」とかね。アシスタントの中では一番最後にデビューしたでしょ。23歳から17年間アシスタントやってて、そのとき40歳だからね。

アシスタントは独立するのが夢だから、日夜努力はしてるわけです。それが早いか遅いかで。早かったのはとりいちゃんとか、土田よしことか。古谷さんは『ダメおやじ』でヒットして。高井さんも「ビッグコミック」で『山口六平太』連載して……だから排出してるマンガ家の数はフジオ・プロが一番多いかもしれない。

他の先生にもデビューしたアシスタントはいるんだろうけど、先生とおんなじ絵でデビューしちゃうでしょ。でもフジオ・プロ出身は赤塚と同じ絵が描けないんだよね。先生のアタリがあるから描けるんで。単純な絵だけに、けっこうなんにもないと難しいんだよ。

僕の場合は、古谷さんが滝田ゆうの『寺島町奇譚』(1968年〜「ガロ」連載)の単行本を持ってきてくれて、「お前の絵ならこっちのほうが合うかもしれない」って。それ見て感動して、毎日滝田ゆうを模写したね。だから僕の絵は滝田ゆうと赤塚不二夫のまざったような絵になってね。だから先生の絵よりボテッとしてる。一番言われたのは「おまえの絵にはシャープ感がない。ギャグはシャープさがないとだめだよ」。僕はどうもシャープに描けない。線が細いとかも言われて(笑)。
 
天才バカボン
「天才バカボン」1〜21巻
--- フジオ・プロの仕事場の雰囲気はどうでしたか。

北見: フジオ・プロはキャラクターが強い人が集まってて、とにかく遊ぶことが好きなところでね。他では先生と一緒に旅行したり飲みに行ったりというのは少ないと思うんですよ。僕はちょっと下だけど、フジオ・プロは高井さん・古谷さんは赤塚先生と同年代なのね。だからいっしょに飲みにいく。精神的にも、アンテナが広がってね。

吸引力があったんだよね。後に映画関連の人やタモリみたいな芸人を呼び寄せるような不思議なオーラがあった。

眠気ざましに新聞紙を丸めてみんなで赤塚の頭をなぐったり、しまいには皮のベルトでビシッとやりはじめたりして。そういうところが他のプロダクションと違うね。他だと先生はエラいから、あんまりそういうことはできないけど、ウチは本人が率先してやってるから(笑)。

イタズラ心はみんなもってて、フジオ・プロのマネージャーだった横山孝雄は、仕事場のある3階までロッククライミングでよじ登って外から「わー」って脅かすんだ。落ちたら死んじゃうよ(笑)。そういう人が集まっていた。ついていけない人はすぐ辞めちゃう。そういうのになじめる人が残ったんだね。

あと、不思議と戦後の大陸からの引き上げ者が多いんだよね(注5)。先生もそうだし、僕、高井さん、古谷さん、横山孝雄さんもそうだし。そういう連帯感っていうか、引き上げてきた苦労とか、境遇が似てるんだよね。


(注5) 他にも、ちばてつやや上田トシコ、森田拳次など引き上げ経験を持つマンガ家は多い。ちばてつやと赤塚不二夫は偶然にも奉天の近い場所に住んでいた(当時は交流はなかった)とのこと。引き上げの体験談については「中国引き揚げ漫画家の会」による『少年たちの記憶』(A・セーリング 刊)にまとめられている。
 
サッチモ
「サッチモ」1〜6巻
やまさき十三、北見けんいち


福ちゃん
「福ちゃん」1〜5巻
やまさき十三、北見けんいち


野球少年
「野球少年」1〜2巻
北見けんいち


おもひで飲食展
「おもひで飲食展」
北見けんいち
--- マンガ作品の上で、フジオ・プロが他のプロダクションと違っていたところはありますか。

北見:
北見さん
フジオ・プロっていうひとつのブランドがあって、編集者が僕を使ってくれたのもそういうところがあると思うんだ。フジオ・プロ系の絵でやりたいっていう。いまでは逆に僕とか高井さんの絵って希少だよね。絶滅危惧種。こういう絵の人いなくなっちゃった。だからけっこう際立つよね。

たとえば「漫画サンデー」で読みきりとか描くじゃない。僕は他の人の絵と違うんだよね。でも読みやすい。今のマンガのコマ割りって、昔で言えば少女マンガの構成のしかたなのよ。コマでっかくして、バストアップでドラマをつくっていくのは。一応手塚先生にしろ藤子さんにしろ、昔のジョン・フォードとか黒澤明とか映画の影響をうけてるから、ロングでカメラを引いて、絶えず頭の中でカメラ位置とかアングルとか、絵は単純なんだけど考えてる。今の人はテレビから入ってるから、みんなバストアップで描くんだよね。背景は入れない。

違いがあるとすれば、そのへんの意識の問題かもしれない。僕のマンガは背景が多いじゃない。背景があってキャラがどういう状況にあって、どういう動きをして……っていう。フジオ・プロの絵は背景はあまり入っていないけど、赤塚先生が黒澤が好きで、いつもそんな話してたんで、イズムとしてある。

(具体的には)『釣りバカ』の場合はページが多いんで、「フジオ・プロ調の少ない背景だと20何枚持たないな」って劇画のアシスタントに頼んでうまくいったんだね。これは根底にはフジオ・プロにいたときの赤塚先生の話が影響してる。先生もそういうふうにやりたかったんじゃないかな。背景をリアルにして。

高井さんも古谷さんも、みんな奇しくもそういう方向にありますね。4ページぐらいだと背景なくても持つんだけど。でもフジオ・プロも50ページ別冊とかというときは結構背景描いたりしたんですよ。少年誌と青年誌では紙の質も違うんでちょっと別ですけどね。
 
--- フジオ・プロは当時スタジオ・ゼロ(注6)内にありましたが、トキワ荘の方たちとの関係はどうでしたか。

北見: トキワ荘の人たちは兄弟みたいなつながりなんだよね。あのグループは好き嫌い関係なしに団体行動だからね。それが今でもずっと離れないってことは、たとえ口で(批判的なことを)言うことがあっても、いないとなったらお互い寂しいんだよ。おもしろいよねぇ。

スタジオ・ゼロには藤子さんとつのださん、石(ノ)森さんは通いで来て……。今となればそうそうたる方ばかりで。学校で言えば僕は東大みたいなところでマンガの勉強をしたようなもんだからね。あそこにいなかったら今の僕はないですよたぶん。


(注6) 鈴木伸一を中心に、元トキワ荘のメンパーで1963年に設立されたアニメプロダクション。スタジオ・ゼロが1965年に新宿・十二社に移転した際、藤子不二雄、つのだじろう、赤塚不二夫のそれぞれの仕事場もそこに移された。フジオ・プロはこのときに正式に設立。

編集者もいっぱい来るもんね。あれだけ編集が来れば、誰かしら「ちょっと描いてみないか」となるから。今はないけど、当時は編集者が「ツイた」んだよね。原稿があがるまで。特に赤塚先生の場合はいっぱい連載をもってるんで、いなくなると他の原稿をやられちゃうから(笑)。それを仕切っていたのが小学館の武居さん(第二回参照)。でも仕切られてた講談社の五十嵐さん(第一回参照)のほうが偉くなっちゃったりして(笑)。
 
もーれつア太郎
「もーれつア太郎」1〜9巻+別巻
--- 武居さんは小学館の他の編集者も排斥していたそうですね。

北見: あれも先生が望んだことで。でも武居さん、会社いかないんだもの。社内の覚えは悪くなっちゃうよ(笑)。あれはあれで本人は本望かもしれないけどねぇ。いきなり家からフジオ・プロに出勤して、まず冷蔵庫からビール出してきて。それでいろんな会社の担当編集者が来ると、自分より年下だから「おまえんとこは何曜日」みたいに決めて(笑)。
 
--- 五十嵐さんはどのような感じだったのでしょうか。

北見: 彼はしっかりしてた。でもはじめは新入社員だからハイハイしか言わなかったけどね。でもちゃんとしてた。でもフジオ・プロに来るのはみんなしっかりしてるのが多かったよ。しっかりしてないとはじき飛ばされちゃう(笑)。手塚番とはまたちがうからね。手塚番はピリピリするみたいだけど。フジオ・プロは編集者もいっしょに遊ぶから。
 
レッツラゴン
「レッツラゴン」1〜12巻
--- 北見先生は飲みにいかれたりはされたのでしょうか。

北見: 僕は飲まなかったんで、運転手がわりに先生を連れていったり、テレビ局に送ったりした。先生は最初飲めなかったんだよ。飲みにつれてったのは高井さんと古谷さんだと思う。

1963年の年末に西大久保のアパートへ行ったの。男が6人いて「北見くん悪いんだけどお酒買ってきてくれないかな」って頼まれて、買ったのは全部でビール6本と子供向けのクリスマスのシャンパン2本。大の大人6人がビール6本で足りるのかなと思ったら、これが飲みきらないんだよ。

集まって何をやってるのかっていうと、「キネマ旬報」って映画雑誌を持ち出して、「今年はこの映画見た」「この映画がおもしろかった」って、それをずーっとえんえん3時間ぐらい。全然飲まないんだよね。

それで古谷さんと高井さんが新宿に連れてったらしいよ。それから病み付きになった。トキワ荘の人たちってホントにマジメ青年だからさ。特に赤塚はそうだったみたいね。それが今はどうだい(笑)。

 
オレはゲバ鉄!
「オレはゲバ鉄!」2巻表紙
には北見さんの姿も



2006/7/22〜9/3
 池袋サンシャインで「赤塚不二夫
サン“シェーッ”インギャラリー」
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--- オンデマンド版赤塚全集の表紙には、赤塚先生の写真を使っているんですが、これは北見さんが撮ったものも含まれているんですね。

北見:
北見さん
僕は写真学校に通ってたんで、フジオ・プロの写真もいっぱい撮りました。たぶん(全集で使われている)中には僕が撮ったものも入っていると思います。でも家には撮ったネガがまだまだたくさんあって、今Photoshopで修正しながら保存してるんだけどなかなか終わらない(笑)。フジオ・プロ時代の写真も残していこうと思ってます。


 
(2005年10月 北見プロダクションにて取材)
<参考文献>
・武居俊樹『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』文藝春秋 2005年
・根岸康雄 著・少年サンデー編集部 編『オレのまんが道II』小学館 1990年

 

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