夏目 房之介 なつめ・ふさのすけ
マンガコラムニスト

1950年東京生。青山学院大学史学科卒。出版社勤務後、マンガ、随筆、マンガ評論などを手がける。 99年、マンガ批評への貢献により朝日新聞社手塚治虫文化賞特別賞受賞。 同年、「現代日本短編マンガ展」(国際交流基金主催)を監修し、NY、パリ、ケルン、ロンドン、香港など世界各地で講演。 著書に「手塚治虫はどこにいる」(ちくま文庫)、「手塚治虫の冒険」(小学館文庫)、「マンガの力」(晶文社)、 「マンガ 世界 戦略」(小学館)、「マンガ学への挑戦」(NTT出版)、「マンガの深読み、大人読み」(イースト・プレス)、 「マンガは今どうなっておるのか?」(メディアセレクト)、共著に「マンガの読み方」(宝島社)、 「マンガの居場所」(NTT出版)など多数。
撮影:于前(ウーチェン)

『ビッグコミック』
創刊号
1968年4月号
発行 小学館

『佐武と市捕物控』
石森章太郎
全13巻
小学館

【連載第101回】
「『ビッグコミック』創刊の頃」夏目房之介 2007年12月掲載


山になったマンガと参考文献を端から読み進めるのだが、何せ生まれついての「遅読の王」ゆえ、 その間にも読まねばならない本は増える。結局、追いつかず「積ん読」の山をなお高からしむ。 だいぶ後になって、山の中腹などを、ふと手にとって読む……。

 そんな日々の中、「時代歴史コミック」と銘打った「ビッグコミック1(one)」2007年4月1日号のインタビュー連載 「神様の伴走者 ―手塚番―」11「神様に諭された男 鈴木俊彦」の回が目にとまった。 ちなみに「ビッグコミック1」と「モーニング2」は、昨今僕には珍しく「とっておきたい中綴じ雑誌」なんである (平綴じだと「エロチィックf」もある)。

 鈴木俊彦氏は昭和18('43)年生まれ。'66年にマンガ編集志望で小学館入社。マンガ志望としては、かなり早い例だろう。 当初女性誌に配されるも、志望がかない「ビッグコミック」の創刊準備からかかわる。 以後「オリジナル」に移り、編集長として「マンガくん」「少年ビッグ」「スペリオール」「チェアマン」を担当。 マンガ畑でずっときて、2004年退職。

 インタビューでは「ビッグコミック」創刊時の話が面白い。
 創刊編集長に〈青年マンガ誌創るんだけど、お前がたぶん見たがってる作家、5人集めてやったぞ〉といわれたという。 そのメンバーは、〈「COM」から、手塚治虫、石森章太郎。「ガロ」から、白土三平、水木しげる。 関西劇画から、さいとう・たかを〉。

 鈴木は、編集長に5人を当ててみろといわれ、一人ハズしたという。ハズしたのは横山光輝。
 〈「COM」でも「ガロ」でもない人って意味でね。光輝さんか、ちばてつやさんの作品が見たかった。 とにかく[劇画ではなく]漫画だと思ったのね。そしたら、劇画3本で、漫画2本だったでしょう。ちょっと意外だったけど・・・・。〉
 これを読んで「なるほど!」と思った。ただ横山光輝は、創刊の'68年当時、たしかに青年物も描き始めていたが、 いまひとつパッとしなかった印象がある。ちなみに、横山光輝もちばてつやも、その後「ビッグ」で連載しているので、 鈴木の「読み」は当っていたといえる。

 鈴木が「漫画」にこだわったのは〈劇画家が青年ものを描くの、意外性がないよね。 漫画家が、あのまるまるした絵で、どういう青年もの描くのかって、それが、すごく楽しみだった。〉からだといっている。
 創刊当時17~8歳の僕は、そこまで考えたかどうかあやしく、むしろ「劇画」の多いのが単純に嬉しかったかもしれない。 高校生のガキの眼には、すでに手塚は「古臭く」感じられ、そこに横山光輝が入ったら余計「古い」と思った可能性がある。 すでに大学卒の青年だった鈴木の感覚は、そこまで青臭くなかったということなのだろう。

 それまでマンガといえば、「漫画読本」(文芸春秋)や「漫画サンデー」(実業之日本社)などの大人漫画か、 少年・少女マンガ、すなわち(読者が青年化しつつあったとはいえ)子ども向けだった。 青年向けのマンガ・劇画誌は'64年創刊のミニコミ的な「ガロ」(青林堂)をのぞけば、ようやく'67年に「COM」(虫プロ商事)、 「週刊漫画アクション」(双葉社)、「ヤングコミック」(少年画報社)、'68年に「ビッグコミック」(小学館)、 「プレイコミック」(秋田書店)が続々創刊されて始まる。
 ただし「アクション」をのぞいて、すべて月刊でのスタート。「ビッグ」も最初の1年間は平綴じの月刊誌だった。

 当初の青年マンガ・劇画誌は、いずれもフットワークの軽い中小出版社が版元で、「ビッグコミック」の創刊は、 大手マンガ出版社(当時は小学館、講談社の2社といっていい)による「初めての青年向けマンガ誌への挑戦」 という位置づけだった。
 高校生のマンガ青年、知識もないくせに「反体制」気分だけは感染していたガキであった僕の眼には、 それはいわば「金に物言わせてマンガ・劇画問わず大物作家を起用した大艦巨砲主義」と映った。 けれど、結果的にこの「大艦巨砲主義」的マンガ・劇画大同団結路線の成功が、 日本に青年マンガを娯楽メディアとして定着させたといっていいだろう。

 逆にいえば、もし「アクション」「ヤンコミ」などの青年マンガ路線だけだったら、やや過激でマイナーに走り、 王道娯楽の幹線道路にならなかったのではないかと思う。
 一方の講談社は「週刊少年マガジン」で青年化を推し進めた内田勝・宮原照夫ラインで青年誌を要求したというが、 一時のブームとの判断か、却下された。'79年「ヤングジャンプ」(集英社)創刊にも遅れて'80年「ヤングマガジン」 創刊(月2回)。「コミックモーニング」創刊はさらに後の'82年である。

 鈴木のインタビューの中に「ビッグ」初代編集長が、読者アンケートなんか気にするなといっていたとある。 石森『佐武と市捕物控』が、ずっとアンケート最下位だったにもかかわらず 〈雑誌全体のバランスを考えて〉連載を4年続けたというのだ。 新しい青年・大人向けのマンガの流れを創ろうという意識を感じる挿話だ。

 今「ビッグ」創刊号を手にとると、当時売れっ子のイラストレイター(この横文字呼称そのものが新しく「かっこよかった」) 伊坂芳太郎の表紙に5人の作家の自画像が配され、中の記事にはやたらと「アングラ」の文字が躍り、マッド・アマノのパロディ、 日産サニーやテイジン、サントリーの広告など、当時の「青年」イメージが蘇ってくる。
 「ビッグコミック」を始めとする青年誌の創刊と影響については、他にも色々整理しておくべき点が多い。 今の読者や海外の人には、そもそもマンガと劇画の対立構図、それぞれがどんなものを指していたのかが、わかりにくいだろう。
 当時、これをリアルタイムで受容した世代の僕などが、もう少し丁寧に今の読者に伝える必要があるんだろうな、 と思ったりするのだった。


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