夏目 房之介 なつめ・ふさのすけ
マンガコラムニスト

1950年東京生。青山学院大学史学科卒。出版社勤務後、マンガ、随筆、マンガ評論などを手がける。 99年、マンガ批評への貢献により朝日新聞社手塚治虫文化賞特別賞受賞。 同年、「現代日本短編マンガ展」(国際交流基金主催)を監修し、NY、パリ、ケルン、ロンドン、香港など世界各地で講演。 著書に「手塚治虫はどこにいる」(ちくま文庫)、「手塚治虫の冒険」(小学館文庫)、「マンガの力」(晶文社)、 「マンガ 世界 戦略」(小学館)、「マンガ学への挑戦」(NTT出版)、「マンガの深読み、大人読み」(イースト・プレス)、 「マンガは今どうなっておるのか?」(メディアセレクト)、共著に「マンガの読み方」(宝島社)、 「マンガの居場所」(NTT出版)など多数。
撮影:于前(ウーチェン)

『ビッグコミック』
創刊号
1968年4月号
発行 小学館

【連載第102回】
「『ビッグコミック』創刊の頃2 『劇画』からコミックへ」夏目房之介 2008年1月掲載


1968年、「ビッグコミック」4月創刊号が3百ページ強の平閉じ月刊誌で出発するまでに、いわゆる青年劇画誌がいくつも創刊されている。
  そのハシリともいえる白土三平主宰の「月刊ガロ」(青林堂)は64年創刊。老舗マンガ誌「週刊漫画TIMES」(56年創刊)を出していた芳文社の「コミックmagazine」は66年創刊で、貸本劇画系作家をさかんに起用した。「週刊漫画TIMES」は、漫画集団系を中心とする「大人漫画」誌だったが、やがてそれらも「劇画」を載せるようになる。


 60年代前半、すでに貸本業界は(少なくとも大阪、東京などでは)末期症状で、人気作家でも本を出せなくなりつつあり、小島剛夕、つげ義春、水木しげる、滝田ゆうなど貸本マンガ家が「ガロ」に身を寄せるように集まった。ある意味で彼らは「貸本難民」でもあった。
  67年、貸本系の光伸書房が「劇画マガジン」を創刊、短命に終わるが、「週刊漫画アクション」(双葉社・「週刊大衆」版元)「ヤングコミック」(少年画報社・月刊少年マンガ誌「少年画報」、同週刊誌「少年キング」版元)が67年、「月刊プレイコミック」(秋田書店・月刊少年誌「漫画王」やマンガ新書サンデー・コミックスの版元)が68年創刊。こぞって「劇画」や「コミック」を標榜、多くの「劇画」作家が起用され、「劇画」ブームとなった。


 奇妙なことに、貸本の衰退が「劇画」の勃興につながったのである。
  貸本メディアを支えた読者層が、いわれているように集団就職などで都市に投げ込まれた十代の若年労働者たちであったとすれば、60年代高度成長下で彼らの嗜好が変化し、あるいは成長とともにマンガを卒業していったのだろうか。
  ある元貸本業者は、物価上昇の中で貸本屋が値上げしない方針を採り、その結果、版元が利益を埋めなくなったのが衰退の要因だと語った。商業的なシステムとして成り立たなくなった、というのが真相だったかもしれない。


 いずれにせよ、この経緯の中で「劇画」は、いわばカウンター・カルチャーとしての象徴性をまとう。
  貸本という、あやしげで周縁的なメディアの出自で、しかも子ども向けではない反抗的で過激な表現を身上とする「劇画」は、社会のより下層から噴出する「民衆の怨念」の代理であるかのように、当時の一部マンガ好き知識人や大学生など知的階層の読者に受け取られた。
  さいとう・たかを、白土三平、水木しげる、平田弘史ら、速度感のある過剰な描きこみによる絵の黒さやペンのカスレは強い情念を感じさせ、話と絵の印象の暗さはしばしば「劇画」的とよばれた。そこに当時のマンガ随伴知識人は、自分の思いいれる「民衆」像や反社会性を象徴させようとしたし、同時期に盛り上がった学生運動と感性的にリンクしたのもの、それゆえだった。
  「アクション」「ヤンコミ」の路線は、あきらかにそうしたダーティで過剰なカウンター・カルチャーのダイナミズムに忠実な側面が強かった。また、この二誌は宮谷一彦、かわぐちかいじ、いしいひさいち、ダディ・グースなど、戦後生まれの新人を積極起用し、「ガロ」「COM」とともに自己表現と作家性重視の雰囲気を醸成していた。


 これら青年劇画誌が「新たな波」と見なされ、20代になりつつあった団塊世代以下の支持を得てゆくのと同時に、他方で二つの流れが途絶えてゆく。
  ひとつは、かつての月刊少年マンガ誌、いまひとつは「大人漫画」である。月刊誌は次々休刊され、「大人漫画」の牙城だった「文春漫画読本」は70年休刊。同じく「漫画サンデー」(実業之日本社)も、他の大人漫画誌同様徐々に「劇画」系を取り入れてゆく。
  つまり、この時点でのマンガ青年的「マンガ界」見取り図は「新しい革命的な劇画」の勃興に対し、戦前戦中から活躍する作家も多い「大人漫画」は滅び行く旧体制反動派、月刊誌的子供マンガも子供だましの守旧派といったところだった。
  手塚治虫は「劇画」を揺籃した先駆者だが、60年代末には中途半端な位置に立っていた。ただ、彼の主宰する「COM」によるマンガ家たちには、実験的で先進的な作家や新人が多く、「劇画」でなくとも青年マンガとして認知された。


 当時から「劇画」という規定は曖昧で、人によって異なり、絵の質だけでも、物語の構成だけでも、いいきれない。「劇画」を貸本媒体で運動として立ち上げた辰巳ヨシヒロ、佐藤まさあきらの「劇画工房」の宣言(58年)にはこうある。
  〈劇画と漫画の相違は技法面でもあるでしょうが、大きくいって読者対象にあると考えられます。子供から大人になる過渡期においての娯楽読物[略]劇画の読者対象はここにあるのです。〉(桜井昌一『ぼくは劇画の仕掛人だった』エイプリル出版 78年 95p)
  登場時には、明確に読者対象による呼称だとされていた。が、のちに一般化したときには、ただ時代的に、ある種の「流れ」を象徴するまとまりとして漠然と呼ばれたといっていい。


 面白いのは「劇画」呼称にやや遅れて「コミック」が前に出てくることだ。横文字のほうが格好いいという理由だろうが、60年代後半期から70年代前半にかけて、欧米コミックの翻訳紹介・浸透の試みともリンクしている。
  やがて「劇画」の象徴した反社会性が生彩を失い、商業的に確立された娯楽市場へとマンガが移行してゆく過程で、コミックは青年マンガの別名の印象となり、また小学館が「ビッグコミック」をはじめ、自社ブランドの名前に積極的に使ってゆく。その後、ふつうの書籍の仲間に入れないマンガ単行本をコミックと呼ぶ、一種業界の流通用語としても確立してゆく。


 こうした経緯の中で、あらためて「ビッグコミック」を考えると、その創刊の意味も明らかになってくるだろう。
  「ビッグ」は「アクション」「ヤンコミ」とは違い、最初から「成熟した大人の娯楽」を視野に入れ、それゆえに当時の一線作家を根こそぎ並べた。それこそが小学館という大手が青年マンガに乗り出すプライドだったろうし、その戦略は青年・大人向けマンガ市場の確立という形で、日本マンガ史に残った。
  世界的に稀な子供~大人マンガの連続的市場の形成には、もともと学年誌出版社だった小学館の青年誌の階層化(ビッグコミック本誌、オリジナル、スピリッツ、スペリオール)戦略が寄与していると思う。もし、小学館も講談社同様に青年市場静観の立場をとっていたら、ひょっとしたら今の巨大な日本マンガは成り立っていないかもしれない。
  「ビッグコミック」創刊ラインナップが、手塚、石森、白土、水木、さいとうという、マンガ2:劇画3の比率だったことの意味も、その文脈であらためて考えると感慨深いものがある。



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